よく考えればそこが人生の分岐点だった 出稼ぎ労働者が働いている中国料理店に転職しキッチンで完全にアウェイの状態に

中国 海外

その頃の私はまだ23歳。
それまで4年働いた中華料理屋をやめ、新しい職場を求めて転職したのですが、今思い出すとそれが人生のターニングポイントだったわけです。

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新しい職場

そのお店はジャンルとしてはダイニングバー。
水槽を熱帯魚が泳ぎ、内装も南国チックでバーカウンターがある。
でも提供している料理は中国料理というちょっと変わったお店でした。
名古屋では結構有名で開業当時は有名ホテルの料理長を抜擢したとかで料理もだいぶこだわっていました。
当時の私はそれまで大衆中華料理屋で働いていたのでそのお店が新鮮に見えたんですね。
面接してもらったらすぐ転職を決めた覚えがあります。

キッチンでは中国勢が次第に優勢に

キッチンスタッフは私が就職した当時日本人6人、中国人2人でした。
しかしそこは結構スタッフの入れ替わりが早い店で、数ヶ月経たないうちに日本人4人、中国人4人と50:50なっていたんです。
そして私も気づいた時には厨房内では2番手に。
つまり私の上司は料理長だけになっていたんです。

海外で切磋琢磨する出稼ぎ料理人

中国人のスタッフは出稼ぎ労働者ばかりで日本語のレベルもほぼ日本語がわからない人からそこそこ話せる人までまちまち。
ある程度日本語がわかる人でも料理長が話す日本語が100%わかるわけではないので、今までの料理の経験やカンを活かしてなんとかやっているようでした。
日本に来たばかりでほぼ言葉が通じない人は、他の中国人に通訳してもらったり、時にはつきっきりで指導したこともあります。
料理長も仕事に厳しく、時には中国人に激しく罵倒するという事もありました。
その時はかなり大変そうでしたが、海外に来てしまった以上やるしかないという思いが、気持ちを前向きに進めていったんだと思います。

外国でHighになる出稼ぎ料理人

日本人も海外旅行とか行くとテンション上がりますよね。
中国人も日本に来ていると気分が乗るみたいで毎晩遊びに誘われました。
といっても仕事終わりで時間は遅いので、大体ご飯食べに行くかドンキホーテに行くかどちらかでしたけど。
休みになれば観光や他の県にいる友達を訪ねたりしていたようです。

料理長が突然倒れ中国人を統制する人がいなくなった

3コ上の厳しい料理長が持病で突然倒れちゃったんですよ。
なんの病気か忘れましたけど1ヶ月入院です。
突然の出来事で人の補充もきかず、残されたスタッフの休みもなくなりました。
さらにその時は私が厨房で2番手だったのでお店の厨房をまとめる役割もはたさなければいけなかったのです。
私が仕切るようになってから数日で厨房の秩序が乱れましたね。
一日中おしゃべりが絶えずまかないも一食増えました。
私も2番手とはいえみんなより年下で仲もよかったので言うことを聞かないんです。
まあ仕事はちゃんとやってたんでお店はしっかりまわしますけど、手が空くと遊びかメシのことを考えているようでした。

中国5対日本1

料理長が入院している間キッチンスタッフの日本人は私とアルバイトが二人。
日本人アルバイトがいない日は当然キッチンの中のスタッフは中国人の中に私が一人だけという状態になります。
そんな日のキッチンは完全にチャイナ状態。
オーダーを読み上げる声だけは日本語であとはほぼ中国語。
厳しい料理長がいなくて仕事もワイワイ楽しくやりたい気持ちはわかりますけど、私はなんか孤独。
まさか日本でこんな経験をするとは思いませんでした。

夢を追いかける出稼ぎ労働者

一緒に働いていた中国人の中には日本で自分のお店を開業した人も何人かいます。
出稼ぎ労働者の中には日本の企業に就職して稼ぐだけでなく、日本で起業し自分の力で稼いで帰る人も少なくないようです。
皆さんそれぞれの料理の腕に合わせてお店を作りますが、大衆中華料理屋を開店する人、はたまた客単価1万円以上の高級店を作る人もいるほどです。
日本で稼いで中国に帰ったら起業してお店をやるという人や子どもの学費にあてるという人、仲には両親にマンションを買ってあげるという親孝行の人もいました。
中国人のジャパニーズドリームもなかなかいいものです。

中国語を話せるように

私も彼らと働いて得たものは疲労とストレスだけではありません。
中国の出稼ぎ料理人と一緒に働きコミュニケーションをとっていく中である程度中国語を憶えました。
その時は会話できるほどもなかったのですが、その時に憶えた中国語をとっかかりに自分で勉強し始め日常会話ぐらいはできるようになったのです。
大学の授業で中国語を半年だけ受けたのも効いているかもしれませんが、もし彼らとの出会いがなかったら大学の授業もただの学費の無駄使いになっていたでしょう。

はては中国で

私もそのお店を退職しさらにいくつか転々としましたがあるところで偶然、中国赴任の話を聞いたのです。
詳しい話を聞きたくてその日のうちに電話しましたね。
実際中国に視察にも行きました。
その後とんとん拍子に話が進み話を聞いて半年以内には中国に行くことができました。

あの時の決断は衝動的な部分があったのは確かですが中国に行ってよかったと思います。
チャンスを素早くつかみ取り逃さないためにも衝動性は必要ではないでしょうか。
しかし私の場合その衝動も何かの見えない力が働いていたように感じます。
選んだ国も日本人に比較的人気があるアメリカやヨーロッパではなくなぜ中国なのか。

その時は夢中で考えもしませんでしたが、その後の中国内モンゴルでその謎は解き明かされたのです。

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